Update:2000/2/1
◆神々の宮殿


小高い丘には
神々の宮殿があり
神々は酒宴をひらき
ムーサが楽曲をかなでる

絵画、コンピューターグラフィック

海外のホームページより

Update:2000/ 1/10

最近PowerPointを使って
Update:2000/ 1/10

随筆、短編、絵本

「話の四つ形態」 Update:2000/ 1/10

「京極家の陽と陰」

Update:2000/ 1/10

「お半長右衛門連理柵列車」

Update:2000/ 1/10

「学生時代の先輩への礼状」からの抜粋

Update:2000/ 1/10
 
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絵画、コンピューターグラフィック
海外のホームページより

最近技術情報の収集のため、海外のホームページを検索する機会が多いのですが、その度に感じることはセンスの良さ。確かに日本のホームページの質は上がっているのでしょうが。

下は最近出会ったホームページのロゴマークです。_ロゴだけ取り出しても無意味かもしれません、全体とのバランスでしょうから。しかし、楽しいロゴです。

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最近PowerPointを使って


下の絵は最近作った動物の絵です。それぞれLion,Crow,Squirrel,Giraffeの文字でその動物を描いてみました。ライオン、カラス、りす、キリンに見えますか。

 

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随筆、短編、絵本
「話の四つ形態」

一般に「話」は四つの形態に分けられる。

1.本当のようで、やはり本当の話。

2.本当のようで、実は嘘の話。

3.嘘のようで、意外と本当の話。

4.嘘のようで、やっぱり嘘の話

「京極家の陽と陰」

室町幕府の四職家の一つに「京極氏」がある。元々は近江の守護佐々木の姓であったが、佐々木信綱の四男氏信が京の京極高辻に住し京極氏の祖となる。応仁の乱以降家勢は衰退したが、その後織田・豊臣両氏に仕えた高次は小浜城主となり再び栄えた。のち松江、播磨竜野、丸亀と移り明治に至った。

その基礎を築いた高次は本能寺の変のとき明智光秀に荷担した。のちに許され豊臣秀吉に仕えた。関ヶ原の戦いでは徳川方につき、若狭小浜八万五千石を受領した。高次の弟高知は秀吉に仕え信濃飯田城主となり、関ヶ原の戦功により丹後十二万三千石を領した。

元々本姓が佐々木で近江の出身であることからも、情報収集に長け、機を見るに敏く、変節漢ともいえるが応仁の乱以降も織田・明智・豊臣・徳川と見事渡りきった。当然「京極家」は乱世を生き長らえた成功者の一人と言えなくはないが、佐々木信綱の野望からすればその栄達さえ挫折と言わざるをえない。

佐々木信綱が四男氏信を京の京極高辻に住ませ、その地の「京極」を名乗ったのは表向きで、信綱の野望は「極」に託されていた。「京を極める」ことであり、「極は最高の位、天子の位」を意味する、当然佐々木信綱の野望は天下を手中に収めることであった。その後高氏は足利尊氏に仕え、室町幕府創立の功により、五カ国の守護に就任し、孫高澄は室町幕府の四職家の一つに上り詰めた。しかし、子孫の誰も「京を極める」には至らなかった。これまでは「京極家の陽」即ち表の話しである。

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それでは「京極家の陰」とは、京極高次は関ヶ原戦いでは徳川方につき、若狭小浜八万五千石を受領したものの、弟高知が関ヶ原の戦功により丹後十二万三千石を領したことに比べればけして満足すべきことではなかった。そして、徳川の世になり、変節漢の栄達は望みもなく、労多くして益の少ない「戦闘行為」に見切りをつけていた節がある。記録では高次は1609年46歳で没したとあるが、実は没してのではなく表世界から姿を消し、裏の世界に身を投じ「陰の京極家」を興したのである。

高次は戦力でなく金力で領地拡大することに方向転換を企てたのである。それも大きな領地でなく、目立たずこっそりと小規模な土地を数多く手に入れることにより、実質的に20万石とか30万石の領主となる道を選んだ。高次の別の顔である近江商人の気質を生かした第二の人生、斎藤道三が油商人から身を起こし一国一城の主になったのとは逆の道を選んだのである。それが「陰の京極」即ち「月極家」の始まりである。

昭和・平成の世の中になって、400年前の高次の野望は確かに身を結んだと言わざるをえないであろう。日本国中のどの町にも、あちこちに「月極」の名の駐車場やマンションが点在している。日本国中の月極家の土地は当時の換算では40万石とか50万石になるのではと思えるほどである。

「嘘のようで、嘘の話」





「お半長右衛門連理柵列車」(れんりのしがらみ)

休日の午後、京都駅近くの喫茶店「イノダ」で、大学時代の友人に数年振りに会った。

「お久しぶりです。」

「だいぶ白くなったね。お互いに。何年振りかな。」

「確か、文研で三千院に行った時。7、8年程。」

「いや、その後。確か、山さんの葬式で。」

「ああ、そうか。すると5年?」

共に大学の文学研究会に所属し、それぞれの青春時代を送った仲。顔を見合わせ、取留めない世間話で互いの心情を理解し会える。

「確か、海外勤務だつたとか。」

「ええ、中国に。2月に帰国しました。」

「ご苦労さんでした。それで、今は工場の方?」

これまで、ほとんど持ったことのない定期を見せながら、「いや、京都の本社勤務。毎日、満員電車で通勤。電車通勤もなかなか大変。」

「じゃ、草津で乗り換え?」

手の中の石部・京都間の三ヶ月定期の中央に薄黒く引かれた、自動改札機の擦り傷を眺めながら、「いや、それが草津線から直通電車があって、それで通っているけど。実は、その電車。…………。お半長右衛門って知っている。」

「近松?」

「いや、正しくは管専助の桂川連理柵のお半と長右衛門。心中物語だけど。舞台の始まりが石部の宿なの。伊勢参宮の帰りに石部の宿に泊まった京都信濃屋の娘お半が、共の丁稚の長吉に言い寄られ、たまたま泊まり合せた長右衛門の部屋に逃げ込んだわけ。長右衛門は遠州の大名から正宗の業物の砥ぎを請負った仕事の帰りで。」

「遠州って、確か貴方の田舎だろ。」

「そう、遠州、遠江(とうとうみ)。もともとは遠淡江(とおつおうみ)で、近江に対して遠江。そんなことはどうでもいいんだけど。……お半と長右衛門は京では隣同士で知り合い。知り合いとは言え、お半は十代の娘で長右衛門は妻もある四十歳ほどの中年。その二人が桂川に身を投げて心中してしまった。その発端が石部の宿。丁稚の長吉に、明日は京、最後の夜とひっこく言い寄られて、部屋に戻れないからと頼まれる。……そして、『一つ蒲団に仮枕、これぞ因果の始めとは結ぶの神もしら紙の障子引立てまた寝の床。』とあっさり表現しているだけ。一方、丁稚の長吉はやっと捜し当てたものの、その事実を知って『……前髪のおれを差置き、よい年からげて初物を賞翫する奴も奴。据膳するがきもがきめエエイ身体がもえて腹が立つわい……』とかなりリアルな心情表現。」

「何か、不条理。」

「そう、だけど面白い。浄瑠璃とか江戸文化。もう一度見直すのも面白いかも。当然、二人は京に居られなくなり、西国に駆落ちすることになったわけ。長右衛門は年老いた親に永の別れを告げるため、実家の柘植に出向き、口には出せないから心の中で親不孝を詫び、永のいや永久の別れをして、朝早く柘植を立ち落合場所の草津宿に向かう。一方お半はあずけられていた野洲の遠縁の親戚を抜け出し草津宿に向かう。」

「そう、よくある話し。」と軽く聞き流しながら珈琲を啜る。

「待ち合わせは草津宿の馬駅。東海道と中山道が合流する草津宿はなかなかの往来。刻は五つ、今の8時。少し早く着いた長右衛門は草津宿の入り口近くで、お半を待つ。間もなく東海道側の道端で止めた長右衛門の駕篭からも、中仙道を草津宿に向かうお半の駕篭が見えてくる。お半の駕篭をやり過してから後を追う長右衛門の駕篭からは、下女のりんが洩らしたのか、野洲からの追手らしい一団の姿も見える。表街道から少し外れた馬宿で落ち合ったお半と長右衛門は如何なることがあっても離れまいと駕篭と駕篭を綱で括り付け、旅支度を調えると直ちに西国に向けて出発する。お半と長右衛門が草津宿を離れると同時に、駆落ちを事前に知って、京から近江へ、そして近江から折り返した丁稚の長吉の駕篭が追付いてくる。そして、連理と結ばれたお半と長右衛門の駕篭と丁稚の長吉の駕篭は抜きつ抜かれつして、瀬田、膳所、山科と京へ向かってひた走る。」

「れんりて何?」

「連なる理(ことわり)と書いて連理。本来、枝と枝が相つらなって木目の相通じることから、男女の契りの深いことを意味するのだけど。綱で結んだお半と長右衛門の駕篭はまさに連理の駕篭。並走する丁稚の長吉の駕篭からは、『帰せ、戻せ』の絶叫。近づいた駕篭からは歪んだ表情の長吉が垣間見えるほど。一方お半と長右衛門は終始無言。そして京にたどり着く。さすがに諦めたのか、丁稚の長吉の駕篭は京で止まり。お半と長右衛門は京で暫しの休みをとると、遠縁でもあるのか網干に向かって、直ちに山崎街道に抜けていくわけ。……ところで、その後、川さんのところどうなの?……うまくいっているの?」

「相変わらず。根は深いみたい。それぞれ言い分はあって、もともと川さんが発端だから。それより、お半と長右衛門はどうなったの?」

「最後には桂川に身を投げて心中するけど、京から落ちた後は知らない。冷たいようだけど、京都で下車するから。」

「下車って何?」

「通勤電車。」

「通勤電車って?」

「最初に話した通勤電車。草津線が電化されてから直通が日に数本あるんだけど。毎朝乗る電車は、柘植発の6両編成の電車が、草津駅で野洲発の6両編成の電車に連結して、12両編成で京都、大坂を経て網干に向かうわけ。」

「それが、これまでの話し?」

「そう、朝の通勤列車は『お半長右衛門連理柵列車』。なかなか粋な列車。草津駅の手前で3度ほど臨時停車をして、野洲からの6両編成をやり過ごし、草津駅の外れのホームで連結作業して本線に入るのだけど、その間、数分かかる。結構長い時間に感じる。窓の外を眺めていると、本線を何本かの電車が行き来する。そんな光景を眺めていると、お半長右衛門の連理柵と重なったりする。………毎朝、石部から長右衛門の6両編成、満員だけどそれに乗って、京まで道行きとしゃれる。並走する丁稚の長吉列車は銀色の新台で、晒しに蒼い各帯を締めたなかなか凛々しい男伊達だけど、それでもお半は中年の長右衛門がいいのかな?」

伝票とイノダのプリペイドカードを重ねながら、「少し、疲れているようよ。また、文研で集まろうか。」

「そう、そうね。」

「本当のようで、嘘の話…しょうもな」


「学生時代の先輩への礼状」からの抜粋

昨年の夏、中国からの帰国を記念して、学生時代のサークルの先輩諸氏が、数年ぶりの麻雀大会を開帳してくださった。
 いつものように彦根の長老宅でご馳走になり、マージン大会へと移りましたが、近況から昔話、挙げ句は貶しあいながら麻雀で、実に楽しい一夜でした。翌日も遅い朝食を済ませると、麻雀を再開したり、囲碁をはじめたりして、夕方には近くの盆踊りに繰り込む予定になっておりました。
 私は中国赴任中の不義理もあり、久しぶりの「盂蘭盆」で田舎に帰らなければならず、昼過ぎには中座した。その後、先輩から出来上がった写真を送付して頂き、お礼の手紙を認めた次第です。以下はその抜粋です。

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写真有難うございました。しかし、中身はこれと言った変化も進歩もないのに、器だけは歳を重ね、肉は弛みしみを付け、「はやし」は「ばやーじ」、「はしもと」は「ばじーもど」と、それどれ濁点や長音符号を頂くようになりました。

皆が酒の勢いで踊り狂っている頃、「人生も麻雀も気迫。我老いたり」と、もう両親が逝ってしまった田舎に向けて東名高速を飛ばしていました。しかし、麻雀はいつも楽しいですね。取留めのない会話を思い出しながら車を走らせていました。

そして、当時、橋本さんが結婚して有頂天で、「奥さんが伊藤ゆかりに似ている。」との発言が「似ても似つかぬ。」と詰られていましたが、その「伊藤ゆかり説」の訂正とお詫びを夢想しながら。

橋本さんは、緊張したり興奮すると、関東弁になったり、妙な文語体で話す癖があり、当時彼はやたらと鉄幹の「妻を娶らば」を口ずさんでいた。確か彼が言ったのは、「僕、娶っちゃった。娶りしおなごは、いとゆかりにて、るなり。」だったと記憶します。

小生は工学部で充分な理解ができませんが、「いと」は「幼い、いとけない」の意ではなく、単純に「非常に、まったく」の意味。「ゆかり」は「因縁、機縁」又は「遠縁」の女性と考えが、当時の彼のことだから「赤い糸で結ばれた」とでも言いたかったのかも知れません。次ぎの「る」ですが、瑠璃の瑠と解釈しました。結局、幸せの絶頂で有頂天だったことだけは事実のようです。

その後、一ヶ月もした頃、奥さんが風邪を引き寝込んだそうです。ちょうど日曜日で、本来新婚ですから寄り添い看病すべきだったのですが、生憎碁仲間が遊びに来た。一局が二局、二局が三局になり、碁仲間は夕方帰ったらしい。

その間、奥の間に寝ていた奥さんは鼻風邪で瞬く間にティッシュをきらしてしまったらしい。ネグリジェ姿で居間に出て行くことも出来ず、何度か橋本さんを呼んだらしいが生返事しか帰ってこない。ティッシュ代わりになるものを物色し鼻をかんだが、それも底を付いてしまった。

そこで仕方なく、紀貫之を真似、「女子の私も、手鼻なるものをやってみんとぞ思う。」と手鼻で用を済ませたらしい。しかし、女性でしかも新婚の身、品を作り淑やかに小指でかんだんだそうです。どうも新婚当時の橋本家は夫婦揃って文語体だったらしいです。

当然、碁仲間の帰った後、奥さんの恨み言。「あなた、鼻かんだのよ、小指で。文句を言いたい。……。」と。ところが奥さんは鼻風邪、鼻が詰まってところどころ声が出ない。

橋本さんには「あなた、はなかんだのよ、小指で。文句を言いたい。」と聞こえたらしい。そして、その奥さんの鼻声に色気があり惚れ直したとの橋本さん談。これが「伊藤ゆかり説」の真相らしいです。訂正とお詫びをいたします。

この話には、実は後日談があり、橋本さんが、新地か南の飲み屋で友人にこの話しをしているのを、ちょうど居合わせた有馬三恵子が小耳に挟んで作ったのが、かの有名なヒット曲「小指の思い出」だそうです。

その後、赤坂か恵比寿のクラブで、有馬三恵子がヒット曲の逸話を自慢げに話しているのを、たまたまライブの帰りに居合わせた宇崎夫婦が聴いていた。そうか、昔から「夜目遠目笠の内」とか「目病女と風邪引き男」とか、かえって不明瞭だったり曖昧な方が魅力的でインパクトを与えるのかと作ったのが山口百恵の「サイレント」。

……などと夢想していたら浜松のインターでした。円の「夢想花」のように「回って、回って、回って、…」、回ってなんぼの人生かも。

まだまだ後日談。銀座のクラブかどこかで宇崎の自慢話を、たまたま陳情で上京していた細川知事。「なるほど、言葉とはそんなに重いものか。」と傷み入ったらしい。

その後総理になり、湾岸戦争。ご承知の通り、連合軍の中で日本は汗も血も流さず肩身の狭い思い。

連合軍の首脳会議に臨み、細川首相は国連の明石さんに相談した。その結果「血を流せない以上金を出すしかないが選挙も近いし金額は片手に抑えたい。じゃ智恵を出そう。」となった。

「明石君、たかだか数百年のアメリカと違い、日本には二千年の歴史と文化がある。文化で貢献しよう。」と銀座のクラブの宇崎の話しを思い出し、フセインを精神的に攻撃することにした。

虐められっ子だった二人は妙に話が合い、「女々しいとか、男でない」の言葉でフセインを窮地に追いやることにし、日本が世界の地位を高める奇策の名案で意見の一致を見た。

連合軍の首脳会議では予想に反し各国の首脳は日本の新総理に好意的で、血も流さず片手の金で決着した。当然、外交手腕の高い評価を得て、日本に胸を張って帰国できる結果であった。

全ての決議が終えた後の晩餐会に望んだ細川総理は予想以上の成果を上げられ、酒の勢いもあり「奇策の名案」を提案した。

「日本はオマン湾の封鎖を提案します。」

「細川さん、それは石油の輸出を止めて、経済封鎖ですか。」

「いいえ、私の子供時代の経験からも、フセインには精神的な屈辱が最も効果があり。オマン湾を埋め立ててオマン湖にしてしまうぞと脅すのです。」

「明石君、通訳。」と胸を張った。

「いいえ、私の子供時代の経験からも、フセインには精神的な屈辱が最も効果があり。オマン湾を埋め立ててオマン…」、と通訳していた明石さんが途中で口ごもってしまった。

結局、日本の提案はオマン湾の封鎖による経済封鎖で、その封鎖に要する費用を追加出費する羽目になり、最終的に両手の金額の出費となった。

当然、翌日の新聞は「日本冷汗を流す」、「日本大出血」などと、汗も血も流し晴れて連合国の一員になった。

当然、細川内閣は短命に終わったものの、マスコミはその詳細を報じることはしなかった。ただ、細川たかしに「わたし(明石)馬鹿よね!」と歌わせることに止まった。

「嘘のようで、嘘の話…いいかげんにせ!」

 

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